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城 名

所 在 地

主な城将

標高

備 考

人面城

長岡市人面字城の腰89

土田道閑

134

 

 

若宮神社前から

 

両岸の護岸工事が行われていた

この城の南側を流れる、「塩谷川

土田道閑が、身を投げ自害したという、「道閑渕

 

東側の沢筋から流れ落ちる渓流

 

2図共、「栃尾の城館」・(栃尾市教育委員会)より!

.人面城への道!

国道290号線と、旧・人面峠への山道(三条市大平側)

 

国道290号、人面トンネルの北側(三条市側)

旧・人面峠への山道(三条市大平側)

トンネルの左手が、峠道

今は、誰も歩いている形跡が無い!

トンネルの南側(栃尾側)

旧・人面峠への山道(長岡市人面側)

 

トンネルの南側に、人面集落

 

若宮神社

 

 

 

向拝の彫刻

石碑に書かれている内容!(一番左の石碑)

 

本村の開村は天台の僧 道遂が布教の為開基

せりと伝承される平安時代の初期 仁和二年

(886)以前なるは明かなれども 真実の

開邑詳らかならず

抑々本社は開村一族の豪氏の氏神にして祭神

宇禮比賣尊を奉斎せるものなりしも 明徳三

乙巳歳に至り 越後国四人面村鎮守として創

建せられたる由緒あり 往時は 不治の業病

疱瘡の治癒祈願の霊場として著名なりしも

明治四十年他の氏神を合祀して敬崇更に新た

となれり 平成八年八月十五日早暁台風にて

社木の老大樹が折損し社殿を押潰 氏子一同

并に族の寄進を得て翌年復元せり

仍て茲に往古以来連綿とて村を支え来し萬

霊及び 過去の戦役に散華されし 十九余柱

の御霊の慰霊を祈念し 村の彌榮を希うため

この碑を建立する

(文字は縦書きに書かれており、一部使用文字が違うものがある。また、誤記があったらお許し願いたい!)

 

神社東側の、石碑群

塩谷川の堤防より見る!

塩谷川に架かる、人面橋

塩谷川に架かる、人面橋(改修工事が行われていた)

塩谷川と、人面城の南西端部

初訪問時の写真

 

塩谷川の堤防改修工事(人面橋の下流部)

(これを見れば、塩谷川が如何に暴れ川であるか解る)

人面城の南側

B、人面城跡!

 

 

 

この地区を、「元屋敷」と言うのか!

南西側の、この地区から侵入!

 

 

 

内部はこの様な猛藪で、遺構の形状が解らない

 

『何を楽しみに、こんな所を歩くのか?』と言われそう

 

 

北側の台地から北西部を見る

城址の北側を流れる渓流

水堀の役割を果たしていたと思われる渓流

北側の台地より

尾根の上は、笹と雑木の猛藪

北側の渓流沿いに、竪堀跡

縄張り図には説明されていない

 

 

『ここが、竪堀の跡だったかな〜?』

隧道がある

 

薮の中に堀切

 

渓流が北側に屈曲している

雑木を少しカットして、この程度

 

南西側の堀切跡

『猛藪で解るかな〜』

 

 

「塩谷川」右岸を見下ろす

尾根は少し高まりを見せる

 

 

 

北方へ延びる小尾根

杉林の中に、曲輪跡

北側の台地から

杉林の内部

 

 

南側斜面の上の尾根筋、土塁状に切り残されている

 

北側の台地から見る

尾根に戻る

 

 

 

 

 

 

 

 

尾根の切れ目が見えて来た

この尾根は、南へ折れ曲がる

 

竪堀状に落ちている

 

北側の台地から

 

この城で、唯一山城の遺構と思われる地区(縄張り図に描かれている堀切か?)

東方へ登る尾根

「塩谷川」方面に落ちる斜面

 

曲輪跡らしき削平地

土田道閑が身を投げたという、道閑淵

上流の、下塩橋方面

下塩方面から

中国の影響を受けたか?不法にも、人間様の生活圏に侵入する、“熊の糞

特徴

 旧・下田村から人面峠を越え栃尾谿へ入ると、人面橋の手前左手に塩谷川に落ち込む様に半島状の台地があり、ここを城の腰と呼ぶ人面城跡がある。

城主に土田道閑と言う武将がおり、下田・高城の長尾藤景が川中島の戦いで、謙信の軍略を批判したことから本庄繁長に打たれ、藤景の家老・長尾外記入道興里を中心に家来が抵抗した為、栃尾の本庄勢が下田郷へ攻め込んだ。道閑は藤景に味方していた為、初戦の血祭りに挙げられ、道閑は塩谷川に身を投じた。この淵を『道閑淵』と言う。

 塩谷川の舟道で、下流の落合城と連携しながら、二日町方面への侵入口を防備する城であったのだろうか?

(落葉時に、本格的な登城を目指すべく、2016.8.28.現地再訪!)

 2017.5.14.本格的()に、登城してみたが、すでに山は猛藪で、その内部の形状は把握困難であった。しかし今迄の経験から述べさせて戴くと、中世の要害としては少し貧弱である。「砦」として「塩谷川」の舟運の監視と、「人面峠」を通過する人の動きを監視する目的とした要害であったのではなかろうか。

.その他!

JA低温倉庫脇に建てられた、集落民家の屋号!

この日は、うら盆の御経会とかで、檀信徒で賑わっていた

 

 

 

真言宗豊山派 瀧澤山 釈迦院 妙圓寺(みょうえんじ)

  長岡市下塩2518

 

 

 

観音堂と鐘楼

境内の西側

 

歴代住職の墓

 

 

裏山の内鎮守、山王社

 

境内から、人面城方面を見る

《由緒沿革》

『境内二千坪、本堂八十坪、庫裡七十坪。裏山に内鎮守山王社を祀る。

 康治二年(1143)紀州根来寺興教大師の高低、俗名佐伯鬼四郎、耀光坊融源大僧都の開基と伝う。

 長岡藩主牧野候、領内の鬼門、方位除けの寺として当山に帰依し歴代領主の尊崇を受けた。

 古来より庶民は「下塩の金神寺」と呼び住宅や建築物の施工に際し一座の祈願を乞う習わしの信仰があり、現在に至るも参詣者の絶ゆることがない。

 明和四年(1767)祝融の災いに見舞われたが直ちに再建され、現在に至る。

 特に見るべき物として、真言密教の潅頂法儀に必要な法具として金剛界、胎蔵界両部の敷曼荼羅、及び秘密法具等調製秘蔵している。』

  「新潟県寺院名鑑」より

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