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城 名

別称

所 在 地

主 な 城 将

標高

備 考

清水城

直路城

城の腰

南魚沼市清水字持口

登坂与右衛門 樋口主水助兼一

長尾伊賀守景忠(上田長尾氏一族)

荒川甚右衛門

820

国境警備の城

 

A.清水城(直路城)とその城下!

直路城と清水集落・2013.10.21、位置確認!

2014.11.24、登城!

 

 

長谷川勝義氏著・「藪神衆の苦悩と誇り 魚沼の戦国事情」より!

国道291号線の六日町方面を見る

二子沢川」に架かる「二子沢橋

第一の関門・「二子沢川

北西方面の「登川」に流れ落ちる

 

北西方面に、塩沢方面の山々を遠望する!

これは、清水集落に入ってからの道を指示している

柄沢川に架かる「新柄沢橋

 

登川」の砂防ダム

 

 

第二の関門・柄沢川

威守松山」と「柄沢川

修験宗 巻機権現社(まきはたごんげんしゃ)

  南魚沼市清水632-1

 

 

 

神社背後の土塁、背後は柄沢川

巻機権現社の北側前面に清水集落がある

《由緒沿革》

 『当巻機山は塩沢町の東南にそびえ、上越国境連峰北端に位置する標高1962mの秀峰。往昔機神の坐す山として崇敬されていたが、安政二年(1855)明心霊神平賀政五郎によって当社が開山された。

その後登拝修行が中絶されていたところ、昭和十六年田村空観行者等によって中興開山され、苦心の末「空観道路」を開削し、修験宗国峰に指定された。山麓清水部落に鎮座せる富士権現社に巻機権現を合祀し里宮とした。毎年八月八日社前において「火生三昧(火渡り)」が厳修される。』

 「新潟県寺院名鑑」より!

この神社の東側を含め、要害の臭いがする!

 

 

 

巻機権現社の北東前に「十二神社

 

 

 

社内に掛けられたこれらの絵は何?

 

 

 

 

巻機山キャンプ場の駐車場と威守松山の尾根端

 

「柄沢川」を渡り、南の台地に入る

南東方面に「威守松山」が見える

清水街道」と「威守松山」方面への交差点

この「清水街道(謙信尾根)」は群馬県の土合方面に抜ける街道であるが、今現在では車で行く事は出来ない!

「清水城」の脇を抜け、「威守松山」に登る林道

新潟県中世城館跡等分布調査報告書」より!

威守松山」方面への林道

 

柄沢川

 

清水城(直路城)の置かれた環境は、背後の檜倉山(標高・1744M)、大烏帽子山(標高・1820M)等の関越を隔てる山々の水を集めて流れ下る「登川」の大河と、これに合流する「二子沢川」を外堀とし、東側側面の「柄沢川」を内堀として利用したような要害の地にある。柄沢川の右岸の「威守松山」の先端部の尾根も巨大な防塁の役割を果たしている。

この城の居館の所在地は不明であるが、私は、「巻機権現社」の場所が有力な候補地のような気がしてならない。しかしこれは素人の推測でしか無いので信憑性は薄い!

B.要害地区(直路城)への道!

この手前の右手斜面から登る!

要害への登山口

 

 

新潟県の合戦 小千谷・十日町・魚沼編(鳴海忠夫氏作図)より!

登山道右手西側の巨大な「竪堀跡」!

この地点で合流し、下に延びている

 

 

左手にも小規模な竪堀跡がある

「三の丸」背後の尾根が見える!

 

登山道左手にも、巨大な竪堀跡

 

 

 

尾根の上部が見えて来た

威守松山への林道が見える

 

 

三の丸」の鉄塔に出た

 

 この城の大手道と思われるこの登山道には、多くの竪堀群が築かれており、この先端部への侵入を警戒しての遺構であろう。

送電線建設での当時の城道は、多少変更されているとは思われるが、要害に付属する遺構はかなりシッカリと残っていた。

C.「三の丸」地区!

大家健氏著書・「図説 中世の越後 【春日山城と上杉番城】」より!

東側の林道から撮!

 

南方背後の本丸方面を見る

南方背後の山々!

 

 

 

西側に、登川の谷

三の丸先端部の曲輪

清水集落方面を見下す

先端部の曲輪から三の丸の主要部を見上げる

鉄塔背後のこの土塁は当時のものか、又は工事で削り残したものか解らない!

虎口に建てられた、JR東日本の標柱

 

鉄塔の背後の尾根上に「城の腰」の標柱

 

 

三の丸地区の中間にある堀切

南側

堀切の底

堀切の北側

 

登山道の斜面からこの地区を見る

堀切の東側から、三の丸地区を見る

鳴海氏の言う、「馬出」地区

 

馬出の虎口

馬出の東側の尾根

 

この地区は複雑な構造となっている

馬出と二の丸間の堀切!

 

 この城の先端部に位置する「三の丸」地域は前方から攻め寄せる敵に備えた遺構群と、大手道からこの城に入城する味方への配慮からの施設に特徴がある。

特に、虎口の構造は複雑に造られ、今の送電線への進入路は工事の為に付けられた道で、本来は鳴海氏が「馬出」と記載された箇所が本来の虎口ではなかろうか?送電線背後の土塁らしき遺構は当時のものであろうか?工事によって大分改変されたものと思われる。

D.「二の丸」地区!

東側の林道より撮!

堀切の東側

 

堀切の西側

 

二の丸地区

 

 

背後の高まりは、「本丸地区

熊の足跡かとゾッとしたが、カモシカの足跡のようだ

本丸の先端部

 

 

 

 

 

 「二の丸」地区の遺構は余り目立ったものはないが、前後の堀切は岩山を利用した手の込んだ堀切となっている。本丸への敵の侵入を意識した縄張りではなかろうか?

E.本丸地区!

東方下の林道より撮!

 

本丸跡

 

先端部の、三の丸方向を見る

西側(登川側)の腰曲輪

ここから尾根が下りている

 

 

本丸背後の櫓台

 

 

 

東側の虎口

 

 

背後の尾根へ

 

東側の柄沢川の谷

柄沢川の奥部の山々

櫓台の後面

威守松山の北東背後の山々

本丸背後の堀切

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「本丸地区」も、「三の丸地区」と同様送電線の建設で破壊されたものと思われるが、この地区の特徴は、背後に築かれた望楼跡と、その東手に築かれた回廊ではなかろうか。

望楼の背後は野面積みの石垣らしき残骸があり、回廊を通って下の堀切に下り、背後の尾根の腰曲輪に下りている。

 ここからの眺望は良く、この城全体を把握できるように築かれている。

 

柄沢川に下りているこの竪堀は、この本丸背後の堀切の延長線であろうか?

 

F.本丸背後の尾根!

東側下の林道より撮!

本丸の櫓台の背後

尾根の西側斜面より

 

 

「登川」奥部の砂防ダム

西側は、岩を切り残した石塁状になっている

尾根の西側に巨岩

 

 

 

本丸背後の尾根の堀切

 

 

 

 

南に延びる細尾根

西側に小規模な腰曲輪

登川沿いに下りる、搦め手の道か?

背後の山へ!

本丸方面へ戻る!

 この地域は、本丸背後の防衛とイザと言う時には背後の山への脱出に備えての施設群ではなかろうか?

登川沿いに搦手道らしき腰曲輪が築かれていた。この地区に築かれた堀切は浅いが、西側に石塁らしき部分が残っていた。

特徴

 2013.10.21、私は前日湯沢町の東映ホテルで行われた高校の同級会の帰り道、せっかく近くに来たので清水城の存在場所を知りたくて清水集落に来た。

清水集落は登川の上流にあり、道はここで工事中の林道で行く止まりとなっている。今迄見た資料から「形状的にこの山!」と威守松山の尾根先端部を「清水城」と思い込み、写真を撮りまくった。近くの林道をウロウロしながら畑仕事をしていたおばあちゃんに「清水城」のある山を尋ねた処、私の思ったその山ではなく背後の山「ジョウノコシ」と呼ばれている山が「清水城」である事が解った。

 清水城は「威守松山」の南側背後に流れる柄沢川が登川に合流する南東にある尾根上にあり、登川に落ちる尾根先端部にある。

柄沢川と登川の合流点の北側に南側を土塁状に切り残した巻機権現社があり、又巻機山に登る入口に十二神社が祀られ、この地域もこの要害に関わると思われるような雰囲気を漂わせている。

 2014.11.24、昨年から気になっていたこの「清水城(直路城)」に挑戦する日がやって来た。事前にこの城に関する予備知識は持っていたので比較的スムースに登城することが出来た。

この「直路城」に関する役割は、新潟日報で報じられた「天地人・ゆかりの旅」にも詳解されているように、「御館の乱」時に景勝によって、湯沢町の「荒戸城」と共に、小田原北条軍の来襲に備えて急造された砦であると、多くの説明がなされて来たが、この城へは上田・坂戸城(南魚沼市坂戸)からは登川を遡って一直線上にあり、又、清水峠を目指して登り、群馬県の土合に抜ける「謙信尾根」と呼ばれる清水街道がある事から、謙信時代から何かの施設があったものと思われる。しかし、謙信時代には越後国内に向かって攻撃を仕掛けてくる敵の存在は考えられず、関東へは最短の距離にはあるが、道は急峻で大軍を移動させるには三国街道が最適である為、緊急連絡の道として使用されていたものと思われる。

 この「直路城」は大軍を常駐させるにはスペース的に困難ではあろうが、急峻な細尾根上に手の込んだ曲輪群と堀切群で防備された、山城フアンには堪らない名城である。

2013.10.21、現地確認!

2014.11.24、要害登城!

新潟日報」より!

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